大院君の攘夷政策

閔氏一族は、大院君の攘夷政策から一転し開国政策に切り替える。

1875年には日本軍が開国を求めて江華島に侵入してきた。

開国派が主流をなした閔氏政権は、1876年に日朝修好条規を締結する。

それに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどとも通商条約を結ぶ事になる。

一方で、開国・近代化を推し進める開化派と鎖国・攘夷を訴える斥邪派の対立は深刻になっていた。

また、日本から顧問を呼び近代式の新式軍隊の編成を試みていたが、従来の旧式軍隊の扱いがなおざりになり、給与不払いや差別待遇などが行われていた。

これらに不満を持った旧式軍隊は、大院君・斥邪派の煽動も有って、1882年閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた。

この軍乱で一時的に大院君が政権を掌握するが、閔妃は清の袁世凱に頼みこれらの軍を排除、大院君は清に連行された。

壬午軍乱により閔氏政権は、親日政策から親清政策へ大きく転換する事になる。

この政策は親日開化派の不満を招き、また朝鮮の軍隊は清と日本の干渉により有名無実化していく。

また混乱から国内では反乱が生じる。
update:2010年02月22日